昭和40年03月25日 夜の御理解
婦人部会の話し合いが頂きます事が、女ながらの道という事である。女ながらの道と。例えば、あの、神ながらなというあのながらですねぇ。私は女ながらの道という事は、例えば、女ながらも御徳に、ごしてやっていくと。女ながらも、男に負けんようにやっておるとか、そういう意味でのながらではないと思う、ね。いわゆる神ながらのながらとこう思う。女ながらの道というは、女は女でなからなければならない分野というか、努めというか。そういう道を、という事だろうとこう思うですね。
例えば今夜、その四月の御大祭の御直会の、例えばお弁当の事やらが、焦点に話し合いがあるだろうとこう思います。同時に今度の御造営についての、勝手元、炊事場の方の、細にわたっての、意見といったようなものをです、あの検討される、ておるわけなんです今晩。そういうような事が、私は女ながらの道と、こう言うのじゃないかとこう思うですねぇ。女でなからなければ気が付かん。
女でなからなければできないという事がある。そういう道を私は全うしていこう。そういう場を、承らして頂くという事。ですから、これは女ながらの道という事は、だからまた男ながらの道という事も言えると思う。年寄りながらの道という事も言えると思う。はぁ年寄りが、もう若い者に交じってやって、そういう意味じゃないです。ね。年寄りなら年寄りながらの道がある。子供にゃ子供ながらの道がある。
青年には、青年らしい、青年ながらの道があるということを、教えておられるのじゃないかとこう思うですねぇ。女ながらの道というのは。そこでお互いがです、なら、それぞれの、それぞれの、ながらの道というものを、行じておるかということを、一つ思うてみなければいけないと思う、ね。例えば、ここで言うならば、久保山先生は、久保山先生ながらの道がある。
久富先生は、久富先生ながらの道があるんだという事。私には、私ながらの道があるのだと。ね。それを私は行じていくという事によってです、ね。信心の奥、奥がにも進んでいけれる、御徳も受けていけれるというのが信心だと。今日、長男がちょっと帰ってまいりましてから、お父さん、これ読んで下さいというてから、書物を持ってきてる。孟子という。あの孔子、孟子というね。道徳の大官ですね。
東洋、西洋の、芸術、東洋の道徳と言われる位に、道徳の道をやかましく言うわけなんですね、東洋では。けれどもその、道徳の道、そういうものではないです信心の道というのは。けれどもそれをちょっと開いた所にこんな事が書いてあったから、読んでみましょうか。君子に三楽ありと。ね。君子自重というような事を申しますあの君子ですねぇ。君子に、さん、三つの楽があると。
孟子曰くと。君子に三楽ありと。しかして天下におうたるは預かり存ぜずと。これは、天下におうたるはという事は、その三楽の内には入ってないという事。王になるといった様な事をね。父母共に存じ、兄弟、子なきは一つの楽しみなりと。例えば、立身出世といったような事が、楽ではなくてですたいね。父母共にいわば家族がです、ね。言うなき、という事。平穏無事であるという事。
そういう生活が出来ておるという事が、一つの楽しみであるとか、言っておるわけですねぇ。仰いで天に恥じず、伏して人に恥じざるは、にも楽しみがあると。天の道に恥じない、また人にも恥じる所のないというような生活こそが、そういう生活させて頂くという事が、二つの楽しみだと。次に天下の英才を得て、これを教育するは三つ楽しみなりと。君子に三楽あり、しこうして、天下におうたるは預かりに存ぜずと。
預かり存ぜずという事ですね。三つの楽しみは、その天下の英才、いわゆる秀才ですね。秀才を教育する事。自分の周囲に沢山の、その人の思想とか、その人の徳を慕って集まって来る人達にです、秀才教育というような事が出来る。自分の弟子の中に立派な弟子が出来ていくという事をです、三つの楽しみがあると、しておる。ね。しこうして天下におうたるは、預かり存ぜずと。
これは天下におうたるというような事は、その限りじゃないという事なんですね。ね。これは、いわゆる、君子に三楽あり、君子というのは、まぁいうならどういう事でしょうかね。立派な人格という事でしょう。立派な人格者と。いわゆる、まぁ、紳士という事でしょう。ね。してみるとです、君子とか紳士とかです、立派な人格を持っておらなければです、三楽にはあえないという事になるです。
例えばこれは、共産主義なんかにもそれが言えれると思うですねぇ。ね。共産主義というのは、とにかく有難いんだと。ね。例えば実力さえあればどんどん成功が出来れる道が開かれるのだと。例えば、頭が良いと。今日も、今年も、私はある人から聞いたんですけれども、もう、高校に試験を受けた。どれでも通った。ところが肝心要の親が貧乏しておる為に学校にやる事が出来ないという。それこそいくらかけたっちゃええ。
入学さえ出来ればっていうようなそういうその矛盾が無いという事。頭さえよければです、どういう成功の道でも開かれる、開かれるというのが共産主義の、主義らしいですねぇ。ですから、はぁ有難いな。とだけしか言うておられない事が分かるでしょう。何故って生まれつき頭の悪い人がありますものね。ね。才が無い人がありますもん。要は君子にならなければ、紳士にならなければと。
頭が良うなからなければ、三楽にあえ、あえる事は出来ないのだ、あっ、成功出来ないのだというようなものではないと。信心の道というのは、だから道徳的なものではないという事。いわゆる、今日私が頂いておりますように、いわゆる、女ながらの道を行じていく事だという事。女ながらの道という事はです。年寄りが年寄りながら。男は男ながらの道。子供は子供ながらの道。頭の悪い者は頭の悪い者ながらの道。ね。
それでいてです、ね。それでいて、皆が神になれれる道なのです、信心とは。此方ばかりが生神ではない。みんなもこの様な、おかげを頂けれるその魂、その精神一つでです、心一つでおかげを頂いていけれる、いわば、三楽どころか五楽どころか、ね。世の中のあらゆる有難さというものを、体験して生きていけれる道を、教えて下さるのが私は宗教だ。いわば、教祖の神様の教えは、それだと私は思うのです。そこに素晴らしさがあるでしょうが信心とは。
だからそれを行ずる事にならなければ出来んです。してみると共産主義なんかっていうのは、ある意味あいでは恐ろしい主義ですねぇ。ね。考えようではですよ、ね。例えばこれは日本の、あの、理念と言われる歌舞伎の世界なんか、やはり共産主義から言ったら、もう本当に言語道断だろうと思うです。見る者にもまれれば、芸は未熟でもどんどん成功出来れるのが、あの歌舞伎の中のしきたりなんです。
それを歌舞伎だけではない、一般の社会でも、それが言えれるですね。親の光が、七光りで、頭は悪かっても社長の椅子をしめる事が出来る。重役になる事が出来る。ね。共産主義はそれは、全然真っ向から反対の事を言っておるわけなんですねぇ。頭さえ良ければ、どんなに名門ではなくても、どんなに血筋が悪くても。どんどん成功出来れる道を、だから皆で競うて勉強するという訳なんです。
そういう意味辺においても良いかもしれんけど、そんならいくら勉強しても、頭の悪いという者は成功も幸せにも、いわば三楽というような楽にあう事が出来ないという事になるでしょう。そこに私は、信心の本当の有難さというものを分からせてもろうて、だから有難さが分かるだけではない、その有難いものを身に頂かせて、頂けれる事にならなければならんという事になるですね。そうでしょうが。ね。
実意丁寧神信心一つで。または素直一つで、雲の上までも登る道がついてくるというのが信心なんです。馬鹿程に素直なんです。底の無い程の素直さ一つでいわば神様にもなれれる道が開けて来るとこう言うのです。ね。例えばなら、そういう道にお互いが縁を頂きながらもです、分かっただけでその道を行じようしなかったら、だから何の楽にも、あう事は出来ないという事になります。
教祖の神様がですねぇ、此方が教えた事をです、本当に行じてくるならです、必ず子孫繁盛の道が開けるとこう仰る。家庭は円満になれると。親の代よりも子の代。子の代よりも孫の代に必ず繁盛すると。祝うめでたいというようなおかげになってくると、教祖は断言しておられる。かと言うても教祖の教えて下さる、その道を私共が行じずしては、それも頂けないという事になるでしょう。ね。
孟子なんかの言っておられる様に、ね。君子だけしか三楽はこの、そこの所だけ読ませて頂くと、君子でなからなければ三楽は得られないと。そりゃそうでしょうね。自分の弟子の中にです、秀才がどんどん出来てくるといった様な事が楽だとこう言っとりますから。秀才のまいっちょ秀才でなからなければ、秀才を育てる教育という事は出来ないという事になる。ところがです、ね。ところが信心させて頂いて、その馬鹿でもです。馬鹿っちゅうと可笑しいですけどもです、ね。
素直一つでです。実意丁寧の信心一つでです。神徳を受け、身に人徳を受けさせて頂く様なおかげを頂いたらです。あんな先生の所にあんな素晴らしい信者が沢山出来るというな事にもなるでしょうが。例えばなら私がです、ね。馬鹿のような男であると致しましょう。ところがなら、私を中心にしてから、ここに信心を求めてみえる人の中にです、私よりも、もっともっと偉い人達がある。ね。例えば学問でいうならば、大学なら大学でも出ておられる。私は小学校だけしか出ていない。
けれども私の周囲に大学なんかを出ておられる方達が集まって、私の教えを頂く事に、有り難いというような人達が出来て来るとするならばです、秀才ではなくてもです、君子ではなくてもです。その人の、いわば信心の徳の中に、たくさんな有り難い人が育っていくという事。ね。そして孟子が言っておるような、楽を心の底から味わわして頂く事が出来る。本当有難い事だなぁ。信心っちゃあ有難いものだなぁという私はおかげを頂かしてもらう為にです。ね。
どうぞ、女は女ながらの道をです、本当に一つ分からにゃいけん。ね。子供は子供ながらの。年寄りは年寄りながらの道がある。ね。それを私は神ながらな道だとこう思う。神ながらの道とは、ね。信心とは我が心が、神に向こうのを信心と言うのじゃと仰るように、自分の心が一段一段、どういう、器量のある人でも、ない人でも。才があろうが、なかろうがです。神に向こうて進んでいけれる道が開けてくるという事なんですね。
おかげ頂きありがとうございました。